中長ブログ - つかもとさんのエントリ

2020/03/30
大長編

執筆者: つかもと (17:01)
みなさん、こんにちは。
塚本です。


こんとし、回してくれてありがとう。めっちゃええこと書くやん、、、
それ以前のみんなも下級生にとっては読むべき、卒業レーンにふさわしい有意義なブログを書いていて感心してしまいました。真面目かっ。
あと回ってくるの早すぎわろた。おかげでめちゃめちゃのんびり書くことができました。
お待たせしました。



とうとう卒業レーンが回ってきてしまいました。
ついにブログ書くのも最後になってしまいます。僕にとっては寂しいことです。
同期の中では、この中長ブログに書く・読む含めて費やした時間はマイケルや山田に引けを取らないと思います。
暇なときに自分の入学する以前の記事を遡りまくったことが何回もあります。


ブログに対する情熱が有り余り、何度も何度も長文を投稿してしまいました。あれでも推敲を重ねてできる限り削った末出来上がった文章だったのです。
これ以降ブログを書くことはないという事実は、自分にとってとても辛いことです。最後くらい、後悔のないように全てを出し切って終わりたいと思います。
己の中にある全ての書きたいことを、とめどなく、そこはかとなく、余すことなく、ノーカットで綴っていきます。
まだ書く前ですが、もう長くなりそうなことが自分でわかります。
最後なので、どうか許してください。





みなさん、「ちゃららら」ってご存知でしょうか。
そうです、京大陸上部の部内誌のことですね。


「部内誌」って表現があっているのかはわかりませんが、名大の陸上部で言うと会報のようなものです。一年に一回発行される、その一年の陸上部の出来事がつまった一冊になります。
名前を出してしまっていいのかはわかりません、、、関係者の方いたらすいません、、、
僕は京大にいる高校時代の先輩に何度か見せてもらったことがあります。


このちゃららら、会報と同じく部員一人一人の投稿集があります。
その中でもメインはやはり卒業生の投稿です。現役部員の投稿とは分けて前の方にまとめられています。


ここまでに関してはほぼ会報と変わりありませんが、この部員投稿がちょっとテイストが違います。それは、一人一人が書く文章の内容が半端なく濃いのです。


名大の会報は、一人が書いてよい量の制限があります。それゆえ割とあっさりとした内容になっていることが多いのですが、京大のそれは量の制限とか(多分)ありません。投稿集がめっっっちゃ長いこと続きます。特に卒業生は、一人20ページとかのレベルで書いている人もいました。


同期やパート全員に一人づつメッセージを書いていたり、自分の陸上人生を1年ずつ詳細に書いていたり、その内容は様々です。
ですが、共通していることはやはり内容がとても濃密なのです。それは、その一人一人の部で得た経験がその人にとって、とても大きいものであったことを物語っているように思います。適当に過ごしていたらかける文章ではありません。一人の部員として、部活動に一生懸命エネルギーを注げ続けた証なのです。そんな部員がたくさんいるからこそ、京大の陸上部は永く強くあり続けられるんだろうな、と読んでいて思いました。



自分も、卒業するときにはこれくらいの規模でそれまでを振り返りたい、、、
そういう謎の憧れを持つようになりました。しかし名大の会報には文字数制限があります。叶わない夢に諦めかけていたその時、僕はあることに気が付いてしまいます



ブログあるやん!



有意義な卒業レーンを書いてくれた同期たち、そして有意義なメッセージを待っていた後輩たち、ごめん、、、
このブログに開設以降運営に関わった全ての方々にも、「そんな場じゃねえわ」とツッコまれそうで申し訳ありません、、、


京大の方々も、やはり大学卒業というのは一つの大きな区切りだと捉えているのでしょう。当たり前ですがその先の進路がどうであれ、競技に真剣に取り組める時期がそこで終わる人が多いからですね。
自分も卒業後はできる限り競技を続けたいとは思っていますが、今までほどの情熱を持って取り組み続けることはできないでしょう。ここは、自分の陸上に限らず人生において、大きな節目だと感じます。


これまで書いたどのブログも自分の我強さにまみれていたと思いますが、最後も抑えきれない我の強さにより、このブログを使って自分の陸上人生を振り返らせてもらいたいと思います。そこにはもちろん、ブログとしての有意義さなどは欠片も存在しません。ただの自己満足です。しかし追いコンも卒業式もなくなってしまった今、これ無しでは真の意味で卒業できないのです(?)


…ポワポワポワ–ン(回想に入る音)(河上先輩ではない)




第1章 〜帰国〜


なんと2009年まで遡ります。
訳あって海外にいた僕は、小さい頃から父と兄の影響で野球をやっていました。
日本の学年で小学校6年生の時、土手っ腹にデッドボールをくらったところから僕の陸上人生は始まります。



小学校の割と序盤の方から海外にいたのですが、その地域では小学生が集まるリトルリーグがありました。日本でリトルリーグというとガチなイメージがありますが、地域的に都会か田舎かというと田舎よりな場所だったので、集まる人数がそこまで多くもなく、監督や審判含むリーグの運営も近所のおっちゃんで回っているようなのほほんとした場でした。レベル的にも高いとは言えず、試合によってはバットを一回も振らなければ勝手に押し出しで勝てるみたいな感じでした。


そんなレベルなのにも関わらず、なぜか硬式球を使っていました。多分国柄的に(?)世間的に軟式球にあまり馴染みがなかったのだと思います。
そんな感じなのでなんとなく分かると思いますが、悲劇が起こりやすいです。
あんまり上手くない投手に限って目一杯投げるので、球はどこに行くかわかりません。そして僕はデッドボールをくらいます。


小学生の頃の話なのでちょっと記憶が肥大化されてるとは思いますが、とてつもなく痛いです。それはもう、一塁に行けるだけでは割に合わないほど痛いのです。それ一発で3点くらいくれてもいいと思いました。


それからというものの、打席に立つのが嫌で嫌でしょうがなくなりました。自分に打席が回ってくる回になると憂鬱でしたし、打席に立っても逃げることしか頭にありませんでした。
当たり前ですけどそんな感じでやる野球は1ミリも楽しくありません。その意識で打てるわけもないし、そもそも守ってても球飛んでこないし。
中学に上がった年には、もう野球はいいや、と思ってやめてしまいました。


早速くだらないエピソードですが、大きい転換点だった気がしています。もう少し続けていたら、周りのレベルもそれなりに高くはなってきていたでしょう。そうなれば、そもそもノーコンな投手が減ってより本来の野球らしい野球ができたと思います。
小さいころから野球は結構好きだったので、デッドボールを食らっていなければ帰国しても野球部に入っていたでしょう。陸上とかの選択肢は全く頭にありませんでした。



僕の住んでいた地域では、通年でやるスポーツの活動というのは、学校に付属したクラブであるかないかに関わらず多くありませんでした。ある期間だけそのスポーツのクラブができて、他の季節になると他のスポーツクラブの活動が始まる、と言った具合になっていました。日本でいうと小学校の部活で夏だけ特設される陸上クラブみたいな感じですかね、日本の方はよく知らないですが…



中学校に上がった僕は、秋スポーツのクラブとして、これまた兄の影響でクロスカントリークラブに入りました。

(文脈上あまり必要のない説明ですが一応しておきますと、僕のいた地域は日本のように小中高大6,3,3,4年制ではなく、5,3,4,4年制で高校まで義務教育でした。さらに年度の区切りが春ではなく秋になるので、年度内で見ると秋スポーツ→春スポーツとなります。ちなみに野球のリーグは学校のクラブではありませんでしたが春スポーツです。僕は日本でいう小学6年の夏の終わりに中学に進みました。)


クロスカントリーとはスキーではありません。長距離ではよく練習でやるアレの方です。なんとクロカン走が一つのスポーツとして確立されており、レースとかもちゃんとあるのです。
何にもやらないのもアレだし、兄が入っていたのでなんとなく入りました。


このスポーツ、当時の僕を刺激する大きな特徴を持っていました。それは、レースがvarsityとjunior varsityの二つの部に分かれているのです。上級生と下級生といった感じです。しかし日本の学年別レースのようにはっきり学年で分かれておらず、下級生をvarsityで走らせることができるのです。


まだ中学生ですから、もちろん年上の方が足が速いです。しかし人数の関係上、僕のチームは1年生を二人までvarsityで走らせることができました。
始めたての僕はクロカンとか以前に長距離走がとても遅く、その上根性無しですぐ歩き始めるようなヤツでした。
そんなある日のレース、同学年の子がvarsityに選出され上級生に混じって健闘する姿を見ました。速くなりたいとか強くなりたいとか全く思っていませんし、むしろキツイことはなるべく避けたいとさえ思っていましたが、その「選ばれ抜かれた強者同士の戦い」感がなんかカッコイイなと思ったのを覚えています。


中学生(日本で言ったら小学生)の初心者の集団です。ちょっと真面目に走り始めれば記録はすぐに伸びます。結果的に僕は、シーズン最後のレースに向けた部内選考に勝ち、varsityの権利を勝ち取りました。レース本番ではvarsityの中でビリから2,3番目でしたが、悔しいとかは全くなく、もう長距離走をしなくてもいいという解放感と、自分はvarsityだったという事実に満足するのみでした。


そしてしばらく時間が経ち、春になります。春スポーツの開幕です。
僕は迷うことなく陸上クラブに入りました。そして種目は迷うことなく短距離を選択しました。


当時、僕は現地の学校とは別に日本語で日本の授業を受けられる補習校に通わせてもらっていたのですが、そこで1年に一回ある運動会の徒競走で負けたことがありませんでした。さらには野球をやっていたリーグでは、(今思えば単に日本人だったというだけで)「イチロー」と呼ばれていました。
そんな感じだったので、僕はとても自分の短距離走の速さに自信を持っていました。ついにキツい長距離走から解放されて、自分の得意な種目で勝負できる、やりたかったことがやれるしヒーローになれる、と希望に満ち溢れて入部したのを覚えています。


練習初日、現時点での走力を確認するためのTT的なものが行われました。100mです。自信満々で走り出した僕は、5人中4番目でゴールしました。

??????

約1週間後、メンバーを変えてもう一度100m走が行われました。ビリでした。

???????????

あれ?僕って足速いはずじゃ?イチローのはずでは?
自分でも何が起こってるのかよく呑み込めないまま、対抗戦100mの3枠の争いから遠く脱落していきました。


しょうがないので人が足りていなかった走り幅跳びの選手になりました。正直全然やりたくなかったので成長しません。むしろやるたびに足が痛くなってすぐにどうでもよく思うようになりました。

種目が変わってからも、部員全員で短距離走をやる機会は設けられていました。僕はその度に100m復帰を目指して走るのですが、正選手との差は全く縮まりません。
そのうち僕は気が付き始めます。
これ、一生勝てんわ、、、


その差を埋めようと必死に努力したりしたわけではないので言う資格はありませんが、やはり短距離には、少なからず体格とか元々ののポテンシャルとかそういう事情が絡みます。
中学1年生当時の僕の身長は150cm弱。同級生たちはすでに170cmを超えている子もいました。その上同い年にして筋骨隆々。
隣で走っていて、馬力の違いを感じるのです。一歩の大きさがまるで違います。はたから見てたら、大人と子供が一緒に走ってるような光景だったでしょう。もし仮にこのままやっても、一生同じくらい速く走れるようにはならないんだろうな、と悟ります。
中学1年生にして、井の中の蛙という言葉をこれ以上なくダイレクトに受け止めました。文字通りに「大海を知る」ってか。


根性の無い塚本少年は、陸上ごとどうでもよくなり適当にシーズンが終わるのを待つ体制に入りました。
そんな僕の様子に気がついてか、コーチが僕に提案してきます。長距離種目にチャレンジしてみないか、と。
えーっまた長距離かよ。キツイからイヤ。ということを英語で表現しきれずに押し切られて走ることになりました。


世界中どこでもやっぱり長距離走は子供達に人気がありません。その時長距離を専門にしていた部員は0で、コーチも流石に枠くらいは埋めておこうと思って僕に提案してきたのだろうと思います。クロカン部のコーチと同じ人なので、長距離走もやったことあることがバレていたのも災いしました。


向こうの(中学校での)長距離種目は日本と違い1600m(1mile)走です。その時は多分8分以上かかってました。しかし部内でトップ。何かこう、部内での立ち位置を見つけたような気がしてちょっと優越感を感じました。この時も、部内で1600mが一番速いという事実がなんか気持ちよくて、気がついたら長距離をメインに走る選手になっていました。

これまた長距離走あるあるですが、始めたての人というのは、ペース配分とかも含めてその種目の走り方がわかってくるので、走るたびに勝手にタイムが伸びてきます。僕はこれにハマり、どんどんタイムが縮むことが嬉しくなってのめり込んでいきました。

僕のいた市は、日本からしてみるとかなり異質な試合形態をとっていました。基本的にレースは、同市内の中学校と2校対抗戦のような形で行われ、全ての組み合わせが終わった後、最後に全中学集まってのレースが行われます。
僕はレースのたびに相手校の選手と競り合いながらタイムを伸ばしていき、最後のレースでは5分台に突入し入賞を果たしました。


今見てもタイムは大したことないですが、それまで何も考えていなかった状態で、競争で勝った、とか入賞した、という体験は自分の中に強烈に響くものです。程度の小ささはともかくとして、この時の長距離走で結果を残した、という経験は長距離を走る今の自分の観念に繋がっていると思います。


シーズンが終わり、日本に帰国しました。
転入した中学校では何か新しいことにチャレンジしようと思っていて、特に陸上をやろうと思ってはいませんでした。しかし長距離走での栄光(?)が頭を離れず、気がついたら結局陸上部に入っていました。



第2章 〜駅伝〜


日本に帰ってきたら、やっぱり様々なことにカルチャーショックを受けます。
上で書いたような日本のやり方から全く違うことを当たり前だと思っていたので、日本のレースを目の当たりにしたときにはもう何が何だかわかりませんでした。
そして特に衝撃を受けたのは、レベルの高さ。
僕のいた西三河地区は、岡崎市や豊田市など陸上が盛んな市が多く、非常にハイレベルなレースが繰り広げられていました。その年の夏、中学選手権の3年男子1500m、トップはなんと4分フラットでゴールしました。
4分て笑。今まで6分弱で先頭争ってた自分たちはなんだったん?笑


僕のいた中学の陸上部には、本格的に長距離をやったことのある顧問の先生はいませんでした。メニューなどは先生が立ててくれていましたが、おそらく手探り気味だったのだと思います。いま振り返るとかなり初歩的なもので留まっていました。多少の強度の波はついていたように思いますが毎日似たような練習で、その一つ一つの意味などは全く知らずにただやっていました。なのでポイント練習とかインターバルとかペース走とか知りませんでした。あとで高校で知ってこれまたカルチャーショックを受けました。

しかし、中学生も体が成長するので、走り続けていれば自動的にタイムが伸びます。学校の練習には体力を持て余していましたが、休みの日などには父と一緒に長いジョギングをしたりしてある程度の体力がついてきていました。
そして中学最後のトラックレース、タイムは4分26秒まで伸ばすことができました。それでも県大会に出場することはできませんでしたが、満足して終わったと思います。


しかし最後のレースでベストを出したことにより、悔いなく勉強へと切り替えるはずが、陸上へのモチベーションはむしろ増していきました。そして先生から推薦で誘われた駅伝チームにどっぷりハマりこみます。


聞いたところによると多くの中学校では「駅伝部」というのは陸上部とイコールではないようですね。秋頃のシーズン限定で、普段の部活は関係なしに速い人ややる気のある人を募って発足することが多いようです。僕の中学もそうでした。他の部活にいたけど中学で駅伝をやってみて、高校から陸上に転向した、という人は周りにたくさんいます。


この「駅伝」との出会いも、今思えば大きくターニングポイントだったかなと思います。そこで経験した団体競技特有の一体感や達成感など、ありきたりな表現しかできませんが、自分にとっての長距離走を陸上競技というより駅伝のためのものと認識し始めたタイミングだったと思います。

この機会に、中学の卒業文集を見返してみました。自分のクラスの投稿欄に、「20歳の時にはどうなっていたいか?」というお題に対して、自分は「走ることをやめないでいたい」と答えていました。ハードルの低すぎる未来像に当時の競技レベルの低さを感じますが、自分を形成するアイデンティティのうちの多くが、この時点ですでに走ることだったのだと思います。



高校に進学しても、やっぱり陸上部に入ります。
当時、自分の高校の陸上部は厳しいことが学校内で有名になっており、「陸上部に入るのはやめたほうがいい」と色々な人に言われることがあるくらいでした。そのせいで経験者が多く陸上部に入るのをやめるのですが、走ることをやめないと宣言(?)したばかりだし、1ミリも入部をためらいませんでした。


上にも書いた通り、中学までの陸上は部活の制約のせいで基礎の基礎すぎて、陸上をやっているにカウントしていいか微妙なラインでした。高校にきて、初めてちゃんとした取り組み方を知ることになります。それはもうまたカルチャーショックの連続で、こんなにも練習が辛いものだったのかと心が折れそうだったのを思い出します。
しかし、それが結果的に中学時代までに温存しまくっていたポテンシャルが開花するきっかけとなり、記録が爆発的に伸びていきました。


中学時点で3000mの自己ベストが10分台だった自分が、最終的には高2で5000m14分台を出すまでに成長します。それには、チームメイトに恵まれたことがとても大きかったと思います。



特に大きな存在だった同期がいます。原嶋渓といいます。
彼は中学時代、サッカー部でした。もともと走ることが大好きだった彼は、初心者ながら入部直後から驚異的な成長を見せ部内の主力になります。
そんな彼と、僕はいつも一緒に走っていました。競り合っていました。実力的にはすぐに追い抜かれて、次第に負けることがほとんどになってしまいましたが、常に互いを意識して、高め合えていたように思います。


彼以外にも、陸上に熱いとても同期や先輩後輩と一緒に陸上漬けの日々を過ごしていました。運よく同期も先輩後輩も長距離の人数が多く、実力的にも恵まれたチームだったと思います。二つ上にはインターハイに出場した先輩もおり、格上の先輩食らいついたり格下のチームメイトの下克上を受けたりしながら、まさにみんなで速くなっているチームでした。


そんな僕らのチームは、ある時から東海高校駅伝出場を目標にし始めます。
なんだか「長距離をやっているなら駅伝が目標でしょ」みたいな雰囲気が部内にはあって、最初は何も考えずただそれに従っているだけでした。しかし全員が一体となって取り組む日々を過ごすに連れて、本気で駅伝で結果を残したいと思うようになったのです。
流石に全国高校駅伝は現実的に厳しいので、頑張れば手に届きそうな水準ということでの目標です。
過去のブログでも詳しめに書いていました。→「予選会まであと6日!」


今考えれば、その目標を達成した後に何かがあったわけではありません。ただ東海高校駅伝に出場できる、それだけのためでした。
しかし、その時の僕らは、それ以外に考えられないくらいにそこに向かっていっていたのです。
それは、チーム全員がそれに向かって本気で取り組んでいるという過程が、自分にとってこれ以上なく充実していたからだと考えています。
本気でこいつらと勝ちたい。
このチームで喜び合いたい。
そういう気持ちが、他の細かいことをどうでもよくするくらいに上回っていました。駅伝が終わった後に、自分は陸上を続けられるのかと心配になることもありました。仲間も全員同じ気持ちだったからこそ、そのようになったのだと思います。


駅伝で負けてから、当時は個人のインターハイ出場に目標を切り替えて再スタートしたつもりでした。
しかし、すでに駅伝が陸上のすべてとなっていた自分の頭を、どこかで切り替え切れていなかったのかもしれません。そこから引退までは、うまくいかないことの方が多かったように思います。小さな怪我や病気による不調を繰り返し、最後の高校総体はあっけなく負けてしまいます。


思い返してみても、なんだか自分の記憶がこの時期だけ非常に薄く感じます。あまり自分にとって良い出来事がない時期だからだとは思いますが、それでも自己ベストを更新することもあったし、変わらず真剣に陸上に取り組んでいたはずです。ただ、それまで自分の中でのすべてだった県駅伝を終えてからの、喪失感にとらわれすぎて、陸上をしている意味を本心では見失ったままだったかもしれません。



県総体で負けてから、ぼやっとしている自分の目に名大の陸上部が入ってきます。

自分の高校は、名大へ進学する人がとても多い高校でした。それも、進学校にありがちな、まだ大学とかよくわかってない下級生のうちから、模試ではとりあえず名大と書かせておく雰囲気があったからです。その流れのままに受験本番まで向かう人が多いのだと思います。
自分も例に漏れずその一人でした。別に本気で名大に行きたかったわけではなく、何も考えていなかったのです。もちろん合格できるだけの学力を持ちあわせていたわけではありません。無理そうなら後で全然変えるつもりでした。


全日予選で敗北する名大を見て僕は、なんとなく親近感を覚えていたということは前のブログに書いた通りです。
加えて、それまでも名大の選手が近くにいることが多かったのです。
「1組目を走っている國司さんは、春のレースの時話しかけてくれた人だな」「3組目を走っている鈴木(雅斗)さんは、いつか一色マラソンでスパート勝負した人だな」「1年生で自己ベストを出した時に、一緒に走っていた人も名大の人だったな(降籏さん)」そんなことを考えながら、すでに名大側の人として観戦していたと思います。
「ここで僕が走ったら、どんな感じになるんだろう…」
うっすらと、名大のユニフォームを着て走る自分の姿を思い描いていたと思います。


数週間後の話です。
インターハイの東海地区予選まで駒を進めていた原嶋を応援しに、エコパの競技場に行っていました。
ベンチで待機している彼に、見たことある人が近づいてきました。なんと元マラソン日本記録保持者の、超有名な方でした。
なんとなく察しがついていましたが、その少し後、彼に告げられます。
「駒澤大学で箱根を目指そうと思う。」
「一流ハードラーの第一歩」

そうなるんだろうな、となんとなくは思っていました。しかし、いざそれが現実となった時、嬉しい気持ちとか応援する気持ちというよりは、さみしい気持ちの方が勝ってしまっていました。いつも一緒に走っていた彼は、互いにライバルだと思っていたはずの彼は、気がついたら自分なんか全く手の届かない遠くへ行ってしまう、と。


その時、数週間前に見た光景が頭の中を流れました。


決めた。名大に行く。
自分が名大を全日本に連れて行く。

そしてそこでまた、彼の隣を走る。



最終章 〜陸上観〜


やっと卒業ブログっぽくなってくるかもしれません。
大学陸上を振り返ってみたいと思います。



このように自分のことに時間をかけて向き合うというのは、やはり新たに発見することがたくさんあります。ましてや今回のように文章にしてみると、自分を含め人間の考え方というのはグニャグニャとしていることがよくわかります。


この陸上部に入る時、自分の目標は「全日本大学駅伝出場」でした。そこで、彼と一緒に走ることが本当の目的だったわけです。


しかしだとすると、東海学連選抜として出場した2年時に目標は達成されています。結果的にですが彼は4年間伊勢路を走ることはできなかったので、本当の目的が果たされることは自分の結果にかかわらず達成されることはありませんでした。


しかし自分は気がついたら、「名大で」全日本大学駅伝出場を目標にして陸上に取り組んでいたわけです。
それは紛れもなく、山の上のたくさんの仲間と出会ったからです。



1年生の頃、入ったらすぐにエース格になれるだろうと思っていた自分の鼻をへし折るように受験ブランクにぶち当たります。思うように走れない中で、初めて「中堅層」として臨む駅伝(予選会)、そして経験したことのない大人数からの応援とプレッシャーを経験し、すぐに全日という目標を見失いそうになりました。

そんな中でも、必死に「3強」の背中を追い続け、東海地区のトップレベルに仲間入りをしました。しかし、それでも全日は遠かった。有名な駅伝映画の言葉を借りるようですが、「良いタイムを持っていること」と「強いランナーであること」は全く別物であることを、勝負のレースに負け続けることで学んだのが2年生の頃です。
「予選会まであと13日!」

3年生になって、全日予選で初めて主力らしい走りができました。しかし総合では遠く及ばず、自分の力だけではどうしようもない無力感を感じるとともに、それまで忘れていたチームとして強くなることに目を向け始めました。自分が速くなることはチームのためであることを一番に意識していました。



そしてパート長に就任しました。ここからの1年間が自分にとっては最も大きな1年でした。

なんとしてでも、自分が、名大が、全日本に出たい。チーム内の誰よりもそう思っていた自信があります。しかし、そう思いすぎるがあまり現実を見失い、空回りしていました。


大学4年生の春。インカレで2種目入賞し、片方では優勝。初めての全国大会の出場権を獲得し、大学生活の中で一番走れていた時期だったと思います。

そして大学生活の中で一番、陸上が楽しくなかった時期でした。


自分が走れている一方、ケガ人と不調者が大量発生し、全く前に進めないチーム。パート長である自分のせいだと頭ではわかっていたものの、思い通りにならない苛立ちが焦りを生んでいました。就職活動のストレスなども合わさって冷静に考えられなくなり、現実から目を背けたまま突き進んでいたと思います。

当たり前のごとく全日予選で大敗します。そこで自分にとっての全日本がなくなって初めて、目が覚めたように思います。
「歴史の偉人」

ある先輩は、客観的に見て達成確率が50%以下の目標は目標ではなく妄想だと言っていました。また他のある先輩も、“A goal without a plan is just a wish.”と書いています。

今振り返っても、夢の中にいたような感覚でした。僕の目標は、ただの妄想に過ぎなかったのだと思います。自分でも達成できると信じきれない目標に向かって進んでいくのは、苦しいものです。
ふと現実に戻った時、自分のやるべきこと、というよりは自分にできることの限界が見えてきました。そうしてようやく、自分本位ではなく、本当の意味でチームのために考え動くパート長になった気がします。


再スタートを切った矢先、今度は自分が怪我をしました。それまで怪我をしたことがなかったので復帰に時間がかかってしまいましたが、その時は本当にもう自分は走れなくてもいい、と考えていました。来年以降の戦力になれない自分よりも、チームの結果の方が大事だと思っていたのです。
最終的には、結局チームのみんなに助けられ、駅伝でギリギリ復帰することができました。
「東海学生駅伝まであとぴったり24時間」

直前にブログで、終わりの集合では笑顔で挨拶ができればいいと書いていました。
どんな顔で挨拶していたか自分では覚えていませんが、この4年間で一番晴れやかな気持ちでの挨拶だったのを覚えています。

目標に向けて、僕個人としては足を引っ張る形になってしましました。3位を取れたことも、チームの強化が実った結果とは言い切れないと思います。
しかし、パート長として取り組んできたそれまでの全てが無駄ではなかったとわかったような気がして、救われた気持ちになりました。
そして何より、勝てる可能性が半々くらいの中で、それぞれが持てる最大限を発揮する駅伝ができたことに、これ以上ない充実感を感じたのです。やっと、このチームで思い描いた「駅伝」ができたな、と。






前のブログで一度、僕は一橋大学の中長ブログを欠かさず読んでいるという話をしたことがあるかもしれません。今でも見ています。
そっちの方でも卒業生が最後にブログを書くのですが、その中で自分が4年間で強く印象に残ったレースベスト3をあげるという流れがあります。
それを見ていて、自分もそれやったろと思いました。
我が強い程度に収まらないブログになってきていますが、大学4年間を振り返った今、最後の我を振り絞って語らせてもらたいと思います。


3位 一橋戦2017

そんな話をしていたらちょうど一橋大の話です。このレースは前にも一回印象に残っているレースとしてあげたことがあります。
この大会では中長距離種目がこぞって負け越し、総合での負けの原因となってしまいました。
一橋大学の選手たちは皆、対校戦における勝利への執念が強く、そういう意識の薄かったこちらサイドの自滅により負けてしまったという感じでした。
めちゃめちゃ悔しかったのを覚えています。実力では負けていないのに、レースの巧さで負けた。名大陸上部において、対校戦というものにどういう姿勢で臨むべきかを考えるきっかけとなった試合でもあります。
「公比1/2」


2位 東海学生駅伝2018

自分が3年生の時の東海学生駅伝です。この大会で自分は4区の区間賞を獲得したのですが、実は区間3位だった選手がタスキを受けとるタイミングでミスをタイムロスしており、本当はその人の方が速く走っていたのです。それを知りながら表彰を受けることのやるせなさというか惨めさが強烈に頭に残っています。
また、この時は総合でも優勝を狙っていながら2位。自分の無力感を感じました。そして何より、タイムを大幅に稼いでくれた先輩方3名がラストイヤーだったことで、それから名大に厳しい時代が来ることを予感させる象徴的な大会であったことから特に印象に残っています。


1位 東海インカレ2017

自分が2年生の時です。見てた人は少ないと思います。だいたい印象に残るレースといえば悔しい思いをしたものが多いのですが、これは自分の大学で走ったレースの中で唯一「会心の走り」と呼べるレースです。
10000mに出場したのですが、エントリー段階では希望者もそうたくさんおらず、とりあえず出てみよう的な感じでした。もちろん格上ばかりで入賞すら厳しいと思っていましたが、集団の中で粘りに粘っているうちに気がついたら4位入賞を果たしていました。

当時の自分にとって、インカレで入賞することなんて遠いことだと思っていたので、上位の常連だった他大学の上級生をたくさん倒して入賞できたことは、自分でも信じられないくらいのことでした。
あれだけ会心のレースができたと自分の中で感じることは今まで他にありません。自分の力の120%が出せた感じでした。出し切りすぎて、大会終了後に体調を崩し2週間お医者さんから走るのを禁じられるくらいでした。

良い走りができて良かった、というのも印象に残っている主な理由なのですが、そのレースによって、見えている景色が変わった、というのが一番大きな思い出としての残っています。
それまでの自分は、チームの中ではエース格の先輩たちの脇を固める存在にすぎず、足を引っ張らないことだけを考えていました。しかしこのレースによって、自分も他大学と勝負できる、という自信を持つことができました。それによりチームを俯瞰してみることができるようになり、他大学の戦力まで含めてより自分の置かれている状況が見渡せるようになりました。

言い表し方が下手でよくわからないかと思いますが、これって実はとても大切なことだと思っています。レース前に、周りがみんな速そうに見える時って一回くらい経験があると思います。それはもちろん自分に自信が無いからそうなるのだと思います。それは人によってはどうしようもないことなのですが、自分が周りよりも持ちタイムで劣っていないと思うだけでも、レースへ臨む気持ちが全然違うと思います。

誰かも言っていたような気がしますが、「成功体験」というのはそれ以降の新たな成功にも大きな役割を果たします。自分にとって、「一回でも東海地区のトップで戦えた」という事実があることはだいぶ自分にとって心強いことで、それからのレースで勝ちを狙えるようになっていった一因だったと思います。
あくまで個人の意見ですが、伸び悩んでいる人の中には、こういった一回のちょっとした成功でブレイクスルーが生み出される人がいるのではないかと思います。そうしたきっかけを掴みにいくことが、まずは飛躍の一歩目であると思います。






もちろん、他にも思い出に残っているレースというのは山ほどあります。しかし思い出そうとするほど、自分が悔しい思いをしたレースばかりが蘇ってきます。
冷静に振り返ってみると、自分の大学の4年間は100%満足のいくものではなかったのかもしれません。逆にそんな人滅多にいないと思いますが。
しかしながら、やはり多くの卒業生が言うと同じく、自分にとって大きな意味のあった時間であったと言いきれます。


長々と書いた自分史の締めくくりとして、自分の陸上人生において、特に大学の後半で向き合うこととなった「陸上観」の話をします。



「陸上観」

国語的に見れば正式には存在しない言葉です。東大の陸上部長距離が使っている言葉を借りています。「人生観」とかの「〜観」を使った造語です。ざっくりといえば、なんのために陸上をやっているのか、どのように陸上向き合うのか、みたいな感じです。


上にも書きましたが大学を卒業すると言うのは多くの人にとって陸上人生を終える(もしくは競技としての陸上から離れる)タイミングなので、卒業ブログにはそのことを書く人が多いと思います。少なくとも陸上をちゃんとやりきったと思える人が、それまでを振り返って行き着いた先が、その人の「陸上観」であるとも呼べるかもしれません。


今まで卒業レーンを書いた人も、それについて書いている人は多くいますね。それらは、それぞれが経験した様々なことの集大成なので、読み応えがあります。そしてこれからも陸上を続ける人にとっては貴重なものです。自分も過去に、先輩方の卒業ブログを見て考えさせられたことがたくさんあります。


卒業ブログに限ったことではないかもしれませんが、こう言った場でよくでる話に「真剣にやらないのであれば辞めた方がいい」と言うものがあります。本当にやりたいことが陸上ではなくて、ほかにやりたいことがあるのならばそっちをやった方がいい、と言うか有意義になりやすいってやつです。
僕も同じ意見です。そしてそれはもう、ほぼ事実なのだと思います。特に長距離においては、嫌々走ってたら偶然速くなった、ということにはほぼならないからです。


しかし、大学の陸上部という集団の性質上、そうとも言ってられない状況が多いです。部内での細かい役職や大会の運営に関わることなど、走らない人が果たす役割も非常に大きく、そういった人たち無しでは成り立たない競技なのです。
ゆえに、裏方に回ることがほぼなく、試合を出続けさせてもらった僕が「真剣にやらないならやめた方がいい」とかそんな偉そうなことはとても言えません。かといって部をやめようとしている人を延々引き止めたりもできず、とても心苦しい思いをしてきました。


僕たちは陸上「競技」部です。真剣に陸上をやれなくなった人がたくさんいていい場所であるべきではありません。全員が陸上と裏方を同時に担えれば問題ないのですが、部としての成果や効率性を考えると、どうしても役割分担することになってしまいます。僕たちはいつでも、競技で部に貢献できない人たちのおかげでちゃんと「競技」ができています。そういう難しいバランスをとりながらやっていかないとけない集団なのです。



僕は、多くの人の「陸上観」を見るようにしてきました。ブログなどで文章化されたものだけでなく、チームメイトと1対1で聞いたりもしました。もちろん同じような状況で陸上に取り組んでいる東大をはじめとした他大学の選手たちのものも多く見てきたつもりです。
それを通して、あることに気がつきました。
陸上をやっている人も、所属するチームの勝利を自身の成長のモチベーションにする人と、自身の成長それ自体をモチベーションにできる人に分けられるのです。


大した話ではありません。単純に言えば、陸上をやっていて何が楽しいか、ということです。
単に陸上競技という点だけで見るならば、個人競技なので全ての人が後者だと思います。しかし、部活動として陸上をやる僕たちの中には、前者もたくさんいます。


僕より3世代上の、ある先輩が、引退し部を去る直前にこう書いていました。
「僕の走る最大のモチベーションは”学校の名を背負って試合に出ること”であった。いい記録を出したときにはもちろん嬉しいけど、いい記録を出したことによってその先の何か大きい大会への出場権が得られることが最も重要であった。つまり僕にとってタイムは目的ではなく手段に過ぎない。」


完全に前者よりの考え方だと思います。
そして思い返してみれば、僕も同じような考えで陸上をやっていました。全く理解できない人もいると思います。ですが、こう考えるタイプの人も確かに一定の割合でいます。
僕は、名古屋大学に駅伝をやりにきた。最初からそう言っていたと思います。もちろんトラックで記録を伸ばすために練習していましたし、自己ベストを出せたときは嬉しかったです。しかしそれは全て駅伝でチームに貢献するためだと考えていました。選手それぞれの持ちタイムから駅伝におけるチーム総合力を伸ばすため、それが一番自分を走らせる原動力になっていたと思います。
僕もその先輩も、チームに所属していなければ、自身の自己ベスト更新をこだわりきれないのです。


名大のようにチームの自由度が高いほど、いろいろな人がいて、完全に自分の戦いに割り切っている人もいます。どちらも間違いではなく、その人が陸上に取り組む意味そのものなのです。だから難しい。
駅伝においても、年によってはチーム内でまとまりきれず、ロードレース×7みたいになってしまっていたこともありました。いつも選手は全力で走っていたと思いますが、やはりその辺の雰囲気というのはどうしても時と人による部分があります。だからこそ、自分としても最後の年にある程度チーム全体で納得のいく駅伝ができたことはとても嬉しかったのだと思います。


こう言うと駅伝に限った話のようですが、そうではありません。
名大の陸上部は全体として対校戦の勝利を目標としています。そして、僕たちの中には、対校戦で点が取りやすいから、あるいは枠が空いているから、と専門種目を変えた人がいます。そこまで至らなくても、対校戦の度に別種目を優先したり、兼ねたりする人がいます。幹部からお願いされて仕方なくやっている人もいるかとは思いますが、この行為というのは、紛れもなく自分個人の競技にかける時間を犠牲にして、チームへの貢献を優先した動きです。


こういったところだと思います。
入部当初、駅伝をやりにきたとは言え、全日本に東海学連選抜で出場したことによって目的を達成しそうだった自分が、名大としての出場にこだわった理由です。
僕の意見です。個人としての好記録や勝利はもちろん嬉しいですが、それによってチームが勝利したことの方が何倍も嬉しいです。
このチームには同じように思ってるヤツが何人もいて、そいつらはそれを目指して頑張っている。それが僕にとっては楽しくて居心地が良くて、気がついたら「このチームで勝ちたい」という目的に変わっていたのです。このチームで過ごした時間と、関わった人たちがそうさせたのだと思います。



部を辞めようと思っている人がいたら、少し考えてほしいと思うんです。
辞めたいと思う理由の多くは、結果が出ない、忙しい、怪我が治らない、練習が辛い、つまらない、、、とかだと思います。
そこで、自分の「陸上観」について。自分がもう完全に自分一人の戦いをしていて、自分の記録を伸ばすためだけに陸上をしているのであれば、それはちょうどいい辞め時なのかもしれません。
しかし少しでもチームのためを思って陸上をした瞬間があるならば、もう少し粘ってみてもいいんじゃないかなと思います。チームのためになんらかの負担を負えたことがあるならば、必ずいつか、このチームにいてよかったと思える時が来ると思っています。そしてそれは、上手くあらわせないけれど、陸上じゃないと味わえないことだと思うし、チームにいないと得られない感情だと思います。
少なくとも自分の4年間は、このチームのために陸上をやりたいと思えたし、このチームじゃないとできなかった(やろうと思えなかった)こともたくさんあったし、チームにたから有意義なものとなったと思います。




書きたいこともだいたい書けたと思います。しかし、最後にもう一つやりたいことがあります。
上にもに書きましたが、この4年間ブログを漁り続けて様々な考え方に出会いました。しょーもない記事から深い記事まで、多種多様な記事が存在するこのブログ。少なくとも僕にとっては陸上に取り組むに当たって、そしてこの部で過ごすに当たって非常に大きな意味を持っていたものだったと思います。


僕はもう投稿する側でなくなります。もう発信する機会がなくなってしまいます。なので最後に、少しでも有意義なことを発信する場としてお返ししたいと思いました。それは、僕が在学中に投稿されたブログの中で、僕が感銘を受けたブログを3つピックアップさせてもらうというなんとも偉そうなアレです。

「〜新・3大長距離全員が読むべき中長ブログ〜」

として後輩たちにもぜひ読んでほしい、さらには後世に語り継いでいってほしいと思います。
(勝手に引用させてもらってます。著者の方々、不快に思われたら申し訳ございません。)



1.「人類生存のための科学」(佐伯元春さん)

僕の2つ上の世代の主将が書かれた卒業ブログです。在学中に、長く怪我に苦しんでいました。しかし競歩に転向し、初心者の状態から日本選手権の標準を切るまでに成長しました。最後の年には主将としてチームを引っ張り、七大戦優勝を成し遂げました。
何回も読み返していますが、良いブログだなと思います。この部活で陸上に取り組むに当たって、大事なことが書いてあると思います。過去に一回、引用させてもらったこともあります。
大変失礼ですが、陸上にはとてもアツい、なんなら暑苦しいくらいの主将でした。ですが僕はそんな佐伯先輩が引っ張るチームの雰囲気が好きで、多くの影響を受けたと思います。
知らない世代も多くなってくると思いますがぜひ読んでほしいです。


2.「あと10時間」(池亀透さん)

比較的最近の記事です。昨年度の東海学生レーンの投稿です。
僕の6つ上の先輩ですが、たくさんの影響を受けた先輩の一人です。特にブログやダイアリーなどは個人のことだけでなくチームのことも客観的な視点で書いていて、僕は全部スクショしてアルバムにまとめていたほどです。上に書いた「成功体験」の話も、以前のブログから大いに影響を受けています(「きっかけ」)。僕が在学中の先輩の投稿は全てレース前の投稿で、そのたびに経験に基づいた教訓が登場するのでそれ全部読んでほしいですが、代表としてこれを選ばせていただきました。
これに関しては僕の名前が登場して嬉しくて印象に残ったのもありますが、それ以上に普段は語らないような陸上への情熱を語っていて感銘を受けました。9年間名大で陸上を続けてきた視点から見ても、やはり陸上競技を続ける上でその面白さ・楽しさを見失ってはいけないということ、言葉の重みを感じます。


3.「下克上は幻か」(濱野貴仁さん)

コレです。コレです。
僕が入学する直前の記事です。そしてご本人とも直接お話ししたことがありません。なので選ぶのを非常にためらいましたが、それでもみんなには読んでほしいと思ったので選ばせていただきました。
確か初めて山の上に行った日に電車の中で読んだブログだと思います。その時はあまりわかっていませんでしたが、今思えば大きな意味のあるブログだと思います。特に今のチームには。

大きな大会(全日本や東海学生駅伝など)に出場したことのある選手を「出世選手」、ない選手を「非出世選手」として分けています。当時のチーム状況と今ではちょっと違いますが、やはり昔から中堅層以下の成長に課題を抱えるチームだったのだと思います。今のチームでは、下克上はほぼ起こっていないと言っていいでしょう。しかし当時よりも選手層が薄いため、それほど成長していなくても出世選手となる選手がで出てきてしまい、チームとしてのレベルが下がってきています。
この危機的状況を伝えるべく、自分がパート長の時も同じようなまとめ方をしたことがあります。

生意気ですが、自分は1年生の時から出世選手で、正選手争いというものを経験したことがほぼありません。なので非出世選手としての気持ちはわからないし、僕が呼びかけても上手く伝わらなかったのかもしれません。しかし現実問題、今タイムを持っていない選手は、将来的にも他校と互角に戦えるようにはよっぽどならないことがデータで示されています。
特に今の名大は、中堅層以下の成長にチームこれからの大部分がかかっています。

勝田を中心に、新チームの長期的な目線での強化は進んでいると思います。数年後僕たちがOBとして応援する名大が、かつての名大のように全員が成長していて、勢いのあるチームになっていることを願っています。






ここまで書ければ、もう悔いはありません。


本当に最後に、名古屋大学の陸上部でお世話になった全ての人に感謝を申し上げます。
自分の大学生活がこんなにも充実していたのは、何一つ不自由なく陸上競技に打ち込める環境があったからです。部長、監督、OB会の方々、育生さん、本当にありがとうございました。
一緒に陸上をしてくれた先輩方、同期のみんな、後輩たちも本当に感謝しています。特に同期、この学年で陸上部として活動できて、心から楽しかった。本当にありがとう。
そして、陸上に関していつでも全力で応援してくれた家族。特に、このブログも読んでいるであろう父さん。ありがとう。


やっぱり長くなってしまいました。
ここまで執筆に2週間かかってしまいました。あまりに長すぎると思ってだいぶ削ったのですが、結局こうなります。
卒論を書くときに教授から、「君の書く文章は冗長でよくわからん」と言われました。
こんなにも長いのに、ここまで飛ばさずに読んでくれた人は、僕と相当親しい人だけかと思います。読んでくれてありがとうございました。あともう一つ言うことがあるとしたら、ヒマかい。


ごちゃごちゃといろいろなことを書いていて思いますが、結局は、やっぱり自分は、陸上がすごく好きなんだな、と感じます。
上にも書きましたが、自分は今まで駅伝をモチベーションに陸上をやっていたので、社会人として、個人の限界を目指して陸上を続けることはできないだろうと思っていました。
しかしチームを卒業した今、やっぱり走らずにはいられませんでした。様々なイベントがキャンセルになり、目指す大会も全てなくなってしまいました。しかし、何を目指すでもないのに、なんだかんだ走ることはやめていませんでした。

結局、僕は今後も市民ランナーとして走り続けることにしました。自分の記録のみとの戦いになる今後、どこまで本気でやれるのかわかりません。
でも続ける限り、名大陸上部で得た様々なことを活かして、まだまだ自己ベストを更新することを目指していきたいと思っています。
現役生も倒しに行きますよ。みんな、大会で会っても無視しないでな…!泣


それではここで令和2年卒業生、男子長距離卒業レーンを終わります。
みなさん、またどこかでお会いしましょう…!
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