中長ブログ - りょっさんのエントリ

2015/03/16
Encore un peu de pain, s'il vous plaît

執筆者: りょっ (17:19)
題名は皆さんに贈る言葉です。

ブログを書くのは、これまでで39回(短距離ブログの1回を含む)。
今回は記念すべき40回目。
こんにちは、ふじたりょうへいです。

ちゃまぐちくん、回してくれてありがとう!

初めに言っておくと、来年からは本社が横浜にある会社で働きます、とうとう社会人。
仕事柄、なかなか皆に会うのは難しいとは思いますが、自分の中の『OBOGは口は出さずに金を出す』という信念の元笑、はるか遠く、おそらくは海の向こうから皆さんを応援しています。


何を書こうかなと散々悩みましたが、
今までやらなかったこと、やってみます。

それは『好き勝手書く』こと。

というわけで、

・1号館室外機爆散問題
・旅行前日に西日本横断問題
・コロッセオで警報問題
・Oクサン:珍獣モード

の話はせずに、

悪びれもなく淡々と自分の競技人生を振り返っておしまいにしますね。

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13年前の6月。
何かスポーツやりてぇな、でも球技のノリが苦手。
そんな思いで何と無く始めた陸上競技。
もともとインドア人間だった私の中で、みんながダラダラ走る校内のマラソン大会でやればやるだけ褒められた経験から、このスポーツ、この種目を選びました。

今でも忘れません。
中1で走った最初のトラックレースは市内でビリ。1500mを6分はかかりました。
同級生の女の子からも(のちの初彼女)、
『なんであんた陸上やりゆうが?』
とか言われる、そんな選手でした。

特にスピードがなく高校生(中高一貫校です)の先輩から設定されたインターバルは設定では一本も出来ませんでした。もう一人の同級生は都道府県の補欠になるまでの子でした。
特に悔しいわけでもなかったけど、設定タイムで出来ないから皆より少しだけ本数を増やしたり、長く走ったりしました。

体の成長もあいまって、中3では3000m9分40秒くらいで走り、土佐中史上初の県駅伝出場に貢献、またそこでも区間3位で5人をごぼう抜きました。

この頃から駅伝が好きになりました。

高校に入って2年。
もともと少ない人数の長距離だけでは駅伝は組めませんでした。距離も距離だけに、400m以下のトラックがお家芸である土佐の短距離部員は、駅伝に貸してもらえませんでした。
高校入ってからは先輩もいなくてずっとキャプテンでした。
何とか5000mで土佐高歴代トップになるものの、トラックでは土佐高史上唯一一度も四国大会に行けてない5000mという種目で、例にももれず私も四国には進めませんでした。

3年の高校総体で引退しました。
1500m、3000mSC、5000mを走って内臓がやられ打ち上げの焼肉が食べれなかったことと、後輩へのメッセージみたいなので顧問へ文句言ったことしか覚えてません。

『観てくれる人がいれば。』

何度そう思ったか分かりません。
(結局は自分次第だと気づくのはまたまだ先の話)

5月に引退して間も無くしても、どこかモヤモヤする自分がいました。

実はこの時高校の長距離の後輩が6人いました。

決心したのは高校3年生の初夏の頃。

『駅伝がしたい』

そしてその思いは募るばかり。

しかしながら、仮にも進学校である母校。

私の部活続行には賛否両論でした。

後で知ったことですが、職員会議とかいろいろあったみたいです、
受験勉強させるべきじゃないんだろうか、そういう感じの。

でも恵まれたことに先輩後輩、担任、顧問、そして両親に背中を押され、出場を決意しました。

思えばこの時が12年の陸上生活で一番楽しかった。器用じゃない私は、その全てを捨てて高校駅伝に取り組みました。いや嘘、彼女は捨ててませんでした。

結果は県6位入賞。
陸上の事をあれだけ真剣に考えたのは、実質リーダーであり、エースでもあり、監督でもあったこの時ほどはありません。


閉会式で賞を取りに行くのは当時のキャプテン(表向きは交代してた)だと思って油断してたのに、『先輩早く前に出て、賞状取りに行ってくださいよ』、と言われた時は涙が出ました。

そしてやっぱり受験失敗(笑)
一年の浪人中は一歩も走りませんでした。

でもこの期間、辛い浪人生活を支えてくれたものの一つは後輩たちの活躍でした。
大学に受かったら陸上続けてみようかなと思ったのは、そのせい、いやそのおかげかもしれません。

そして6年前、名古屋大学陸上競技部の門を叩きました。

周りにはとんでもなく強い選手ばかりで、いつも練習を観てくださるけどとんでもない金尾先生もいました。
おれもこうなりたい、そう思ったのは確かです。(金尾先生なりたいわけではありません、強い選手に、です。)

わけ(全略)あって学連に入りました。
今思えば大きな分岐点。

そこで間もなく縁あって選抜合宿に行きました。
当時M1だった育生さんと出会ったのがこの時で、麻保呂さんと三人で居間で話したのは今でも覚えてます。
『この人たちについてけば選抜とやらに入れるのか』
そう思って練習してました。
名大に戻ったらなんだか強くなった気がして楽しかったのを覚えてます。

その冬怪我をしました。

つまらないのが嫌いな自分は、部をやめようかなと思いました。
この時濱田先輩が強く引き止めてくれて、今でも感謝しています。

2年になり走れるようになって調子も上がってきた矢先、
克也と長谷川に東国体の選手争いに負けました。
めっちゃ悔しかった。

東国体の選手が決まった1週間後の名阪戦、亀と古川を抑えて(今では信じられないかもしれませんが笑)、卓弥と競り合って初めて5000m15分台で走りました。
もちろん長谷川にも克也にも勝ちました。

高校時代、顧問の先生に、
『おれの言うタイムを出せたら駅伝に短距離を貸そう』
それが15分台でした。
その分一際嬉しかった、、、


と同時に、一つのやってやった感がどこかにあったのかもしれません。
しかも、この頃からちょうど、学連では次期幹部として周りから認知されはじめ、やりがいというのを感じ出しました。

3年になると学連で秘書になりました。
学連では運良く大きな大会に呼ばれたこともあって、大した事もしてないのに幹事長に噛み付くただの口だけ人間でした。それでいて周りからは働き者に見えるらしく、走らなくても部に居場所がありました。いや、自分でそう思い込んでいただけかもしれません。

思えば先輩方から睨まれだしたのもこの頃な気がします、そりゃそうです、大した実績もないのに大きな顔をしているのだから。
といっても当時の僕には気づくことは出来ませんでした。

4年になって幹事長になりました。
幹事長の大変さ、佐久間先輩はじめ歴代の幹事長の偉大さを知りました。
台湾では血を吐いたし、それはそれは色んな人に怒られました。

11月知多からの帰りの高速のサービスエリア、もう日も落ちた中、レンタカーの中で仮眠とったら日をまたいでしまいました。
この日は確か知多二往復目。
当然、深夜のサービスエリアではお店も空いてなくて、真っ暗闇の中、なんか食べなきゃと、ちょうど手元にあるプリンを一人で食べてたら、情けないことに涙が出てきました。気がついたら声も上げずに真顔で泣いていました。
『何のために誰のためにこんな惨めな思いをしてるんだろう。』
そう思えば思うほど、目から出てくる水は止まりませんでした。

それでも皆の前では笑顔でいつも通りヘラヘラしてようと決めていました。それが自分らしさだと思っていたからです。

とはいうものの、秘書の山西や周りの人に恵まれたおかげで、
任期最終日2013/3/31の21:00まできっちり?仕事をこなすことが出来ました。もちろん、楽しいこともたくさんありました。中京大の名だたる選手に胴上げされた名大生なんて、きっと私くらいでしょう。

この間、陸上部では和田パート長はAチームのメンバーとして孤軍奮闘し、澤田主将は結果がついてこないことに苦しみもがいてました。同期が部を引っ張らなきゃなんない一番大変な時期に、全くといっていいほど時間を割けなかった、割こうともしなかったにも関わらずいつも気遣ってくれた同期の皆には感謝さえすれど、おこがましいといえばそれまでですが、今でも申し訳なさでいっぱいになります。

この頃から、同期の中でも自分は異質なんだな、結局のところ陸上部の中では何もしてないんだな、ということを意識するようになります。



そしてやっぱり陸上したくて院に進学しました。

それはM1の秋の事です。

コーチになった育生さんに本気で叱られました。
確かペーランの時に勝手にペースをあげたからだと思います。

『考えて走れ』

そう言われてペース配分とか、色々考え始めるとすぐに自己ベストが出ました。
あれがなかったら自分は部員になれずになんとなく引退していたでしょう。

M2になって、就活を終えました。
でも冬は全くといっていいほど走れてなく、もはや思い切って80くらいで回れればいいやと思いたち、走ったのが信州大戦でした。
5000m16分40秒をちょっと切ったくらいなのに楽しかった、

そこで、久我がブログに書いてたような事に気づきました。

そして東国体、初めてポイント選手に選ばれました。
そこでポイント獲得、しかも自己ベストのおまけつき。

でも何よりあんなに遠くにいた澤田と6年目にして初めて一緒に5000m走って、直接対決して、そして勝てたこと、それが一番嬉しかったです。


この時点で入部して5年。
遅すぎましたが、
初めて部の一員になれたような気がしました。
学連員じゃなくなっても、幹事長じゃなくなっても一選手として皆と対等に話していいんだとホッとした気持ちもありました。

でもまた怪我をしました。

思えば暑さに苦手意識があったのも、長引いた原因でしょうか。

復帰した秋季は17分かかりそうでした。私は一度キツくなると粘れない事が分かりました。

それでもなんとか持ち直しライン上の上寺を押しのけて、東海学生のBの補欠には食い込むことができました。
最後の5000mは、レース展開やペース配分、みんなの応援より、なにより上寺に負けたら絶対ダメだ、と、そのことしか考えてませんでした。
自己ベストに届かなかったこと、もちろん悔しくはありましたが同時に一度も彼を前に出さずに、勝ちきったことにホッとする自分がいました。

ただ、彼はきっと私なんか目じゃない選手になってくれるでしょう。


最後の東海学生駅伝は、初めて名大の応援をしました。結果はどうあれ健志を送り出した瞬間、一成を送り出した瞬間には、選手にはなれなかったけど部の一員としてその役割を果たせた思いでいっぱいでした。

ここで私の競技人生は一区切り。
長いようで短い、人生の多くを費やした競技人としての生活は幕を閉じました。
(西濃駅伝はおまけ)

こうやって振り返ってみて、今一番心の中にあるのは、
タイムが出なかった、駅伝で正メンバーになれなかった悔しさでもなく、
また満足感や達成感でもありません。



感謝の気持ちです。



指導して頂いた金尾先生、育生さん、

後悔のない選択を尊重、後押ししてくれた土佐陸上部の先生方、先輩後輩同期、

こんな自分を受け入れてくれてた名古屋大学陸上部の先輩や後輩、

時には厳しいけど、競技活動も応援してくれた故伊藤晃先生はじめ学連関係の先生方、東海、全国の学生陸上を支えあった主務や選手たちや、他地区の学連員、

そして、、、、

我が強いおれらの緩衝材になってくれて、学年会の開催場所をいつも提供してくれる、カメラを向けると必ず変顔してくれるぐっさん、
練習する機会が一番多くて、誰よりも負けたくなかったくがちゃん、
ウマも合わないし、お互いイライラさせるばかりの相性なのに、なんやかんや長い付き合いの奥さん、
いつも褒める言葉しかでてこないし、ダメな時もいい時も、海外旅行が体力的にしんどい時笑も話を聞いてくれたしのや、
中々結果がついてこないおれたちの中で唯一といっていいほど活躍してくれた、いつもは元気なのにお腹が異常に弱いけんし、
部での付き合いはもちろん、学年会の場所抑えから、恋愛相談から、パリでのワインの飲み相手まで、割とどんな時でも一緒だったのに肝心の主将の時にはついてやれなくてごめんよなさわだ、

6年間競い合ったこの6人とさらに、
よっしー、すがさん、克也、はっせー、波多野の長距離メンバや、短フィのだいご達、佳世ちゃん達女子、未久達のマネ、ほんでまぁ特別(腐女子)枠で加藤紫帆、

などなど個性豊かな同期達。


産み育ててくれた父さん母さんはじめ家族の皆、


ふじたのことを好きな人、嫌いな人、別にどうでもいい人。



割と顔に態度がでる私ですが、今なら上に書いたような、陸上競技を通して出会った全ての方々に素直にありがとう、ここまでではあるけどきちんとやりました、と伝えれる自信があります。

今、おそらくチームとして大変な時期だとは思います。
そこで僕からは、

『Encore un peu de pain, s'il vous plaît』

この一言だけをはなむけの言葉として捧げます.

ただただここに感謝の意を表しながら、藤田亮平の記念すべき40回目のブログを最後にしたいと思います。

本当にありがとうございました。



では次に。

主将と幹事長、組織は違えどお互いおつかれさんやったな、
漢字二文字違いの澤田恭平にタスキをつなぎます。
駅伝でタスキつなぎたかったけど、それは叶わなかったからこんな形でタスキリレー。
バトンはつないだんだっけ?

6年間ありがとう、これからもよろしく。


あと滞ってる学部生にも回しておこうか。

もしかしたら一部の同期よりも一緒にいたかもしれない一成、
(お前が学連でほんまによかった、楽しかったで。)

と、

「天下のモテ男」のフリを受けて、
その素敵な笑顔が大好きな友紀に回します。
短くていいからこっちでも何か書いてね。
あと下の名前で呼んで欲しいな←

○卒業レーン
院:久我→忍矢→奥さん→山口→おれ→澤田

学部:福井→中野→一成
→友紀

○通常レーン
上寺→雅斗→松井→カトケン



おしまい
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